先日,オットー・リリエンタールの「鳥の飛翔」の序文が熱い旨を書いていましたが,肝心の本文が,読めば読むほど読みにくくなる迷文で困ります.
きっとこの文章はこういうことを言っているのだろうなと,図や式を手掛かりにニュアンスを汲み取りながら読むわけですが,それでは何のための邦訳なのか分かりません.
流体力学が今ほど確立されていない時代の著作であること,筆頭訳者が化学をバックグラウンドに持つ先生であることなどを考えれば用語が分かりにくいのは理解できるのですが,それにしたっておよそ流体力学では使わないと思われる単語が頻出しており,脳内変換する方が内容を理解するより手間になってしまっています.流体は専門でも何でもない蛙の末裔ですらやるせなくなってしまうのですから,流体を専門にしている人が読んだら泣きだすんじゃないかね.
また,直訳を匂わせる文章なので多少用語が不自然でも説明が正しくなされていれば分かりそうなものなのですが,ところどころ見られる図のキャプションと本文との不整合や,明らかな誤訳と思しき唐突な単語の登場によってそれもままなりません.ひょっとすると原著が既に誤植を含んでいるのかもしれませんが,それにしたってもう少し何とかなるのではないかと.
また,文法的に見ても,明らかに主述の対応がとれていない文が散見され,しかもそれが読み進めるに従って増えていく印象を受けます.訳者の先生も,最早中盤以降は何を書いているのか分からなかったのではないか,と推測します.
邦訳に縋っておいて何を言うかという話ですが,正直に言って,漢字仮名交じり文ではあっても日本語ではない部分が目立ちます.大体,訳者は二人いて,一人は著作がいくつもある大学名誉教授,もう一人は工学博士という構成なのに,どうしてこうなってしまうのでしょう.
内容そのものは,技術史,科学史の資料として最早真偽を別にした意義があるものなだけに,訳の分かりにくさがいたずらに価値を下げているようでなりません.真面目に,辞書と原著を持ち出したくなります.
ただ,こうして読んでみて,これが科学技術論文の翻訳の難しさなのだろうと感じました.意訳して論理を崩してしまうのが問題だからといって,直訳ではまともな文章になりませんし,そもそもこれくらい古い文章になると原著の中での論理が正しいのかすら危ぶまれるという三重苦.それを経たうえで,こうして母語で読めているのなら,有難く頂戴するべきなのかなぁ,とも思えます.
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